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男はおもむろに振り返り、後部座席の僕に大きな手を伸ばしてきた。
「ようこそ、客人、エジプトは初めてかい?すまないが、街まで一緒に乗せてもらうよ。」
流暢な英語でそう言った男は、白い歯を見せた。
信用してもよいのか。。
街に入り、僕はガイドブックから適当にひとつ、ホテルの名前を挙げた。
ロンドンから持ってきた小さな本が、今はお守りのように思える。
訪れてみると、しかし、灯りがついていない。なんと、廃業してしまったという。
確かにガイドブックと同じ名が英字で刻まれた看板が掲げてはある。が、錆びて傾いていた。
「まあ、この国だ。こんなこともあるさ。」
と男は笑うと、心当たりがあると言って別の小さな宿に案内してくれた。
こちらの不安を見透かしてか、男は親切だった。
廃業したホテルも、その名が刻まれた看板も、すべてが大掛かりな騙しの道具だと思えば、そう思えたかもしれない。
一人きりの状況で周りを疑い始めれば、極端に疲弊するほかない。
けれど、最後まで付き合ってくれる大男の屈託のない笑顔に嘘は見えなかった。
宿に荷物を降ろしても正体不明の漠然とした不安はまだ消えない。僕はもう、くたくただった。
その夜はそれ以上の思考を停止して、倒れるように、ようやく辿り着いた簡素なベッドに、沈んだ。
そうだった‥‥。
昨夜そのようにして踏んだはずの石畳の通りを、僕は窓から見下ろしながら、思い出していた。
この旅には、あえて何も決めずに出た。
旅程も予定も何もない。大河を巡る、そして東へ。ただそれだけが見えている命題だ。
まずは、この街から。
気持ちがはやる。
刻々とボリュームを上げてゆく喧噪のただ中に、落ち着きを取り戻せないままの胸を抱えて飛び出した。
宿には深夜、車に連れられるに任せて到着していたから、僕は自分の居場所を把握していなかった。
方角も判らないまま歩き出す。
宿はどうやら街の中心部にあったらしい。しかも「スーク」と呼ばれるマーケットのすぐ近くだ。
スークのある通りはおそらくこの街でも古い一角なのだろう。日干しレンガ造りの建物に挟まれた谷底のような空間に、強い陽射しでかえって濃くなる深い影が生まれ、そこに幾筋かの光が洩れ射して、まるでスポットライトのようにシーンを浮かび上がらせている。
香料や食料や動物の匂いが入り交じる不思議な臭気と熱気の立ち込める路地に展開する、タイムスリップしたような様々な光景。
野菜や果物を荷車で売り歩く老人。主人が道端で客引きに躍起になっている間、車引きのロバは仕事から一時解放され、疲れた顔で道に撒かれた藁を食む。
スパイス屋の軒先には大きな籠に山盛りにされた色とりどりの香辛料が並び、オヤジが何やら大声で叫びながら、客の方を一瞥もしないまま、小分けしたそれらを次々に量りに載せては器用に捌く。
骨董品屋はいつの時代のものか判別出来ないちょっと如何わしい銀細工を、神経質に磨き上げるのに余念がない。
茶屋では「シャイ」と呼ばれる紅茶に飽和して沈殿するほどの砂糖を入れて、小さなグラスを何杯も傾ける。そして全てのアラブの男たちにとって無くてはならないものらしい「シーシャ」という水タバコ。一体どうやって生計を立てているのか判らないが、日がな一日これをふかしつつ、世間話に明け暮れバックギャモンに興ずる、そのような姿がそこかしこにある。
異邦人の目にはまるで劇的な、日常の風景。
スークから外れて商店街へ。
ルクソールは国際観光の街。観光用の商店街があり、道は途端に奇麗になる。
そして商品も宝石や絨毯や服飾雑貨の類いが多くなり、どの店先にも、商業主義のフレームで切り取った色鮮やかなポストカードが並ぶようになる。
ここにくると、人の様子も変わる。
数メートル歩くごとに「日本人だろ?」と声を掛けてくる商魂逞しい人々。
不思議だが、彼らにとって、同じアジア人の中から日本人を見分けるのはさほど難しい事ではないらしい。
おそらく少なくはない日本人観光客は、彼らにとっては格好の客なのだろう。
それにしても、商売のためとはいえあの手この手の口上で、彼らも必死。
買い物客として全く甲斐性のない僕は、だんだん居たたまれなくなってくる。
商店街を抜け、イスラム寺院の尖塔を巡り、路地から路地を彷徨うように歩いた。
こうしてしばらく闇雲に街を歩いていて気付くことがある。
いや、気付くというよりも、感じる、違和感を覚える、という方が正確かも知れない。
何も知らないはずのこの街に対して、一つの大きな軸、あるいは意識の流れのようなものを感じるのだ。
それは、大通りにいても路地にいても、神殿でも民家でも、はたまた土産物屋の店先でさえも、何とはなしに知覚してしまうものである。
この地に置かれる全てのモノは、大地に接する瞬間からそれを意識し、そして意識し続けるに違いない。
それは「この地に立った全てのヒト」と置き換えても例外とならず、常にある種の韻律に支配されつつそれに甘んじることで身の保証を得るような、しかもそれは無自覚のうちにも浸透し、僕のような異邦人でさえ逃れることはできずに、客体と化されてしまう。
つまり、その主体とは、「ナイル」である。
ふっと空気の質が変わったと思うと、目の前には茫漠とした空間が広がった。
漠としているのに清らかな光景。
僕は何かに導かれるままに歩を進め、いつしかここに辿り着いていた。
焦がれた地面からの熱風は止み、代わりにくぐもった藻の匂いを乗せた優しい風が、額の汗を少しづつ拭ってくれている。
苛烈な陽光も、その表面の細波によって細かく砕かれて流されてしまうかのようだ。
この国に入って以来僕を悩ませた漠然とした不安は、嘘のように、霧散していった。
圧倒的な水量を湛えた紺碧のナイル河との、初めての対面だった。
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